プロ野球の背番号永久欠番一覧

プロ野球背番号永久欠番一覧とその歴史、次の永久欠番候補は?

プロ野球選手の背番号と言えば選手の名刺のようなもの。
さらに偉大な功績をあげた選手が引退するときにその背番号を以降他の選手がつけられないよう欠番とするのが永久欠番です。
長いプロ野球の歴史において永久欠番となった選手にはどんな選手がいるのか?永久欠番の一覧と次の候補者がいるのかについて紹介します。




プロ野球永久欠番の一覧とその歴史

球団番号選手ポジション制定日
読売ジャイアンツ1王貞治内野手1989/3/16
3長嶋茂雄内野手1974/11/21
4黒沢俊夫外野手1947/7/9
14沢村栄治投手1947/7/9
16川上哲治内野手1965/1/18
34金田正一投手1970/4/2
阪神タイガース10藤村富美男内野手1958/11/30
11村山実投手1972/11/2
23吉田義男内野手1987/10/13
中日ドラゴンズ10服部受弘投手1960/3/20
15西沢道夫内野手1959/3/15
広島東洋カープ3衣笠祥雄内野手1987/9/21
8山本浩二外野手1986/10/27
15黒田博樹投手2016/11/1
埼玉西武ライオンズ24稲尾和久投手2012/7/4

ほとんどが1950年~1990年頃に制定されており、近年ではあまり永久欠番の制定は行われていません。
また15人中14人がセ・リーグの選手だというのも特徴的ですね。

ジャイアンツの永久欠番は6名います。
言わずと知れたONコンビの王貞治、長嶋茂雄両氏に打撃の神様川上哲治氏、400勝投手金田正一氏は選手としての実績、プロ野球界での功績が称えられての永久欠番です。

一方で黒沢俊夫氏は、1936年に名古屋金鯱軍に入団、その後兵役を経て1944年に東京巨人軍に移籍します。
巨人軍では千葉茂、川上哲治氏とクリーンナップを組むなど活躍しますが、1947年に腸チフスを患い33歳の若さで病死してしまいます。
黒沢選手は病気を隠して試合に出場し現役選手のまま病死したことで球団葬で弔われ、
千葉選手を中心に選手有志から永久欠番にするよう提案されたことから永久欠番となりました。

伝説の沢村栄治投手は、京都商業を中退して読売巨人軍の前身で1934年に結成された大日本東京野球倶楽部に参加、
ジャイアンツ設立当初から所属、日本プロ野球史上初のMVP、3度のノーヒットノーランなど快速球投手として活躍しました。

王貞治選手は868本のホームラン世界記録を始め、プロ野球の長い歴史を語る上で長嶋茂雄選手とともに欠かせない偉人です。
両選手はONとして巨人軍のV9時代をけん引した球団史上最大の功績者です。
仮に永久欠番でなかったとしてもその背番号の重みに耐えられる選手はなかなかいないでしょう。

川上哲治氏は、熊本工業から1938年に東京巨人軍に入団、赤バットをトレードマークに通算18年の現役生活で首位打者5回、本塁打王2回、MVP3回など数々のタイトルを獲得。
監督としても14年務めV9を含む優勝11回とジャイアンツの黄金時代を築いた功労者でした。

金田正一氏は、愛知の享栄商を中退して1950年シーズン途中に国鉄スワローズに入団します。
入団15年後の1965年に巨人へ移籍、400勝を節目に現役を引退し、背番号34はジャイアンツの永久欠番となりました。
引退後、名球会を設立したことでも有名です。

藤村富美男氏は、阪神タイガースの前身大阪タイガースの設立時の1936年に入団、初代本塁打王を獲得します。
「物干し竿」と例えられるほど長いバットを使い数々のタイトルを獲得。
1955年から兼任監督、1957年から監督に就任し、1958年には現役復帰するも1959年に引退した際に背番号10が永久欠番とされました。

二代目ミスタータイガースの村山実氏は、1959年に関西大学からタイガースに入団、最多勝2回、沢村賞3回、MVP1回など現役14年間阪神のエースとして活躍。
関大時代からの背番号11を阪神でもつけるなど11にこだわりをもっていましたが、1972年の引退時には見事に永久欠番となりました。

吉田義男氏は、1953年に立命館大学を中退してタイガースに入団、現役通算17年でベストナイン9回、盗塁王2回など獲得、現役引退後は阪神の監督を3度務め1985年に日本一も果たしました。
1987年の監督退任後に背番号23が永久欠番になりますが、監督時代の背番号は1、81、83でした。

巨人、阪神に次ぐ老舗球団の中日からは服部受弘(つぐひろ)投手、西沢道夫選手の2名が永久欠番となっています。
この両氏が永久欠番となった経緯は、これまでの選手とはちょっと事情が異なります。

服部選手は、元々強打の捕手として1939年に中日の前身である名古屋軍に入団しますが、途中からは投手に転向し投手として112勝、打者としても本塁打王1回獲得しています。
同じように西沢選手も1937年に名古屋軍に投手として入団しますが、途中ゴールドスター金星に移籍し野手に転向します。
その後中日に復帰してからは野手として首位打者、打点王を1回獲得しています。
両選手とも球団の中心選手でしたが、1958年にチーム若返りのために球団から永久欠番にすることを条件に引退を勧められたといういきさつがあって、服部選手の10番、西沢選手の15番が永久欠番となったものでした。

広島の永久欠番は、鉄人衣笠祥雄氏、ミスター赤ヘルの山本浩二氏、メジャーリーグでも活躍した黒田博樹氏の3名となっています。
この3氏は名球会入りも果たしていますが、衣笠氏、山本氏は1975年の球団初優勝時に赤ヘル軍団の中心打者として活躍、黒田投手はメジャーの高額オファーを蹴ってカープに復帰して25年ぶりの優勝に貢献しました。
特に衣笠選手は通算23年の現役生活で、当時の世界記録となる連続試合出場記録2131試合を更新(最終的に2215試合)し国民栄誉賞を受賞しています。
永久欠番の選手で国民栄誉賞を受賞しているのは王貞治氏、長嶋茂雄氏(松井秀喜氏と同時受賞)の3名のみです。

埼玉西武の永久欠番は前身の西鉄ライオンズ時代に鉄腕の愛称で活躍した稲尾和久氏です。
大分県の別府緑丘高校時代は無名ながらも1956年西鉄ライオンズに入団、当初は打撃投手を務めながらめきめきと頭角を現します。
1958年の日本シリーズでは3連敗から4連勝、逆転日本一の立役者となり6試合に登板したことから「神様、仏様、稲尾様」とまで言われました。
現役引退後、監督就任時にも背番号24をつけていましたが、西鉄から西武に球団が身売りされる時に24番を永久欠番とする話を断ります。
その後西武では24番をつけた選手は秋山幸二選手、小野和義選手などいましたが、稲尾氏逝去後の2012年にその功績をたたえ永久欠番とされました。

該当者を見ていると、永久欠番になっている球団の偏りが見受けられます。
巨人が断トツの多さになっていて15人中6人該当者がいます。
永久欠番に指定される場合、球団の配慮によるものになります。
該当者は全員素晴らしい成績を残しているだけでなく、球団への貢献度やファンに愛された度合いも考慮されているようです。
名球会入りは投手も打者も明確な数字の基準があり、これを達成すると名球会入りが認められます。
しかし永久欠番では、球団側から提案するもので、単に成績だけ残してもなかなか該当しないということのようですね。

その他の永久欠番

球団番号選手役職
北海道日本ハムファイターズ100大社義規オーナー
東北楽天ゴールデンイーグルス10サブメンバー
77星野仙一監督

日ハムの大社義規氏の永久欠番は、親会社日本ハムの創業者で1973年日拓フライヤーズを買収して日本ハムファイターズのオーナーに就任、
球界きっての野球好きオーナーとして1981年の日ハム初優勝の胴上げ時に来ていた背番号100が2009年に永久欠番となったものです。

東北楽天ゴールデンイーグルスの10は、先発メンバー9人につづく10人目、サブメンバーの一員という意味で欠番とされたもので球団創立時から制定されています。
さらに77は、2013年に東北楽天を球団初のリーグ優勝、日本一に導いた闘将星野仙一監督の背番号です。

また事実上の永久欠番として千葉ロッテマリーンズの背番号26はファンのための番号として欠番扱いになっています。
これはファンはベンチ入り25人に次ぐ26番目の選手を意味しています。
このように選手以外でも、球団の功労者に対する敬意や特別な意味をもった永久欠番もあります。

なお消滅した球団の近鉄バファローズ鈴木啓示投手の背番号1も永久欠番となりましたが、2004年のオリックスとの合併により本人の辞退を受けて永久欠番が解消されているものもあります。

次に永久欠番になる候補は?

今まで永久欠番になった選手の顔触れを見るとレジェンド級の実績を残した選手が大半です。
永久欠番になる最低条件として、選手としての実績であれば名球会会員であることは必須になると言えそうです。
選手時代の実績以外で永久欠番になるケースはかなり稀だとは思いますが、野球界に多大なる貢献をした野球関係者が表彰される野球殿堂入りしているか国民栄誉賞を受賞していることは少なくとも必須かもしれません。
また永久欠番となる背番号についても、現役引退後、監督、コーチ時代も同じ番号を着用するか、現役引退後すぐに永久欠番になるケース、亡くなってからというケースもあります。
最近は日本で活躍してからメジャーリーグへ移籍、日本時代から背番号が変更されることも多いため、現役時代から一貫して同じ背番号を付けること自体が珍しくなってきました。
永久欠番になることの最低条件として、レジェンド級の実績、功績を残したうえで現役引退後すぐに永久欠番となるか同じ背番号を着用し続ける、あるいはしばらく欠番となっていることが挙げられるのではないでしょうか。
このような条件を満たす選手を上げてみました。

球団番号選手ポジション
読売ジャイアンツ55松井秀喜外野手
オリックスバファローズ51イチロー外野手

ジャイアンツのレジェンド級の選手で言えば、松井秀喜選手が挙げられます。
しかし松井選手の55番は2009年から13年まで現DeNAの太田泰示選手が着用した期間があり現在は欠番となっていますが、
今後松井選手が監督として復帰して55番を着用するようなことがあれば永久欠番となるかもしれません。

あとは今さら説明も必要のない選手、イチロー選手です。
オリックス時代に着けていた背番号51はその後欠番となっています。
現在は事実上の永久欠番という扱いで今後正式に永久欠番となるのかは不明ですが、永久欠番にもっともふさわしい選手ではないでしょうか?

現役選手で永久欠番になる候補は?

個人的には、読売ジャイアンツの坂本勇人選手を挙げます。
坂本選手は、2007年9月6日に中日ドラゴンズ戦で決勝点となるプロ入り初安打初打点を記録して以降、様々な記録を打ち立ててきました。
2020年11月8日にプロ野球史上53人目の通算2000本安打を達成したことは記憶に新しいと思います。
年齢的にも3000本安打を目指せることもあり、張本勲氏の3085本の安打数を上回れば永久欠番になるかもしれません。

まとめ

最後に永久欠番になった選手は黒田博樹投手の2016年です。
今後、永久欠番となる選手が現れるのかは不明ですが、ハードルが上がっていることは間違いないでしょう。

球団としても活躍した選手の背番号を永久欠番とするよりは、後継者に着けてもらって活躍を促すという効果も期待できるでしょうし、
安易に増やせば永久欠番の価値が相対的に低下してまいます。空き番がなくなって背番号そのものが枯渇していくということも考えるでしょう。

次に永久欠番となる選手はもう出てこないかもしれません。逆に永久欠番が貴重で栄誉のあることの裏返しと言えます。

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